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更新日:2021年1月29日
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『関山隧道』は、明治政府の殖産興業政策の一環であった「北日本一の港を目指す宮城県の野蒜新港の建設計画」に連動したもので、太平洋の港と山形県を結ぶ新道として開発された。
政府の政策により計画されたこの新道は、多くの地域住民にも開発が望まれていたものであった。この新道の完成は、山形県の開発と発展に大きく寄与した。
関山隧道は、初代県令三島通庸の命により1880年(明治13)6月に着工され、2年後の6月に完成した。山形・仙台間の既存の街道では、冬場の積雪と険しい山道のため、増加する人々の往来や物流に対応できないとして、馬車が通れる新道の整備を行ったものである。
関山隧道は、標高600メートルの位置に掘られた延長287メートルの隧道で、この完成により山形から宮城県まで馬車での通行が可能になった。この開発は、栗子隧道の完成に続く三島県令の大規模な土木事業の一環であった。
栗子隧道の開削では、難工事にもかかわらず奇跡的にひとりの死亡者も出さなかったが、関山隧道の工事にあたっては、トンネル開削用火薬の爆発事故による死者23人、重傷7人という悲惨な事故もあった。
1887年(明治20)に東北本線が仙台まで開通すると、山形と仙台間の通行量は飛躍的に拡大した。1日1万貫の貨物、背負子300人、人力車130台、荷馬車400台、郵便物郵送夫40人という記録が残っている。その後、1901年(明治34)に奥羽本線が山形まで開通し、二年後には新庄まで延伸されると関山隧道の交通量は激減していった。
自動車交通の時代が訪れると、増大する交通量に対応するため、1937年(昭和12)7月に延長298メートル、幅員6メートルのトンネル拡幅工事が施工された。しかし、完成後もトンネルの前後の道路は、急カーブと急勾配の連続で、土石崩落や積雪・雪崩による交通の途絶が絶えなかった。そのため、1963年(昭和38)に延長890メートル、幅員7メートルの新関山トンネルが着工され、1968年(昭和43)11月に完成した。新関山トンネルの坑口は、旧トンネルの約70メートル程下がった地点にある。
山形県東根市大字関山字峠沢
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